台木あってこそ

今年は明治維新150年ということで、改めて「明治」という時代に注目が集まっている。明治は、西洋列強という途轍もなく大きな外敵が黒船で乗りつけて開国を迫るという挑戦を受けて、日本人が長年培ってきたエネルギーが一気に爆発した時代だ。

「ここで注目すべきは、日本人がこの時爆発させられるだけのエネルギーを既に持っていたことです」と指摘をするのは文芸批評家の新保祐司氏だ。「そのエネルギーは江戸時代に培った大変高度な文明であり、それを台木として西洋文明を接ぎ木をすることに成功したのです。もし、しっかりした台木がなければ、日本独自の花を咲かせることもなく、単なる切花で終わっていたことでしょう」という。

例えば、侍としての台木の上に近代の軍事技術が接ぎ木され、日露戦争時には日本を危機から守ることもできた。内村鑑三はキリスト教、福沢諭吉は文明、岡倉天心は西洋美術、中江兆民はルソー、森鷗外はドイツ文学をそれぞれの台木に接ぎ木していったということになる。庶民にしても侍を生き方のモデルにしつつ、寺子屋教育での「論語」や「大学」などの漢文の素養が、それぞれの台木を強固なものにしていた。

明治時代に学ぶ

「ところが残念なことに、江戸文化という優れた台木に接ぎ木されることによって生まれた明治の精神は、大正以降、急速に衰退していきます」と新保氏。それからさらに100年の時を経た現代について、「依然、台木を失ったままの状態が続いている。一方で、日々大量の文化が日本に流入しているという意味では、接ぎ木だけは無数に存在している」状態にあると見ている。

これは司馬遼太郎が「明治という国家」の中に書いているが、滝廉太郎が文部省から外国留学生としてドイツに西洋音楽を学んでいた時、下宿の管理人をしていた女性から軽蔑の気持ちから、「遠いアジアから来て一体どういう曲を作っているのか」と尋ねられ、「荒城の月」を朗々と歌い上げたという。西洋音楽200年の伝統があるドイツで、「荒城の月」一曲をもって西洋文明と対峙した滝の姿に、「胸がつまりそうになる」と感想を述べている。

こうした明治の精神を学ぶこと、つまり「明治ルネサンス」が今の時代を切り開く大きな鍵になるのではと新保氏は提唱する。14世紀に始まったイタリアのルネサンスは、キリスト教の堕落が著しかった中世を大きく飛び越えて、はるか古代ギリシャにその改革の源流を求めた。それと同じく、私たちの改革の範を、今こそ明治という時代に求めるべきなのではないかというのだ。

覚悟ができているかが大切

新保氏の明治の力というのは、つまるところ「内からの欲求が煮えたぎっていた時代」ということだ。先日、人間国宝の講談師である一龍斎貞水氏がお話しの中で、「僕はたまに貞水さんはあまり後輩にものを教えませんねって言われるけど、僕らは教えるんじゃなく伝える役。伝えるということは、それを受け取ろう、自分の身に先人の技を刻み込もうとするから伝わっていく。教えてくれなきゃできないって言ってる人間には、教えたってできない」と言っていたのが心に残った。内からの欲求がないところには成長もないということなのだろう。

起業した人たちに見る「使命感」にもそれは見て取れる。海外の子供たちの自立支援に関わっているあるNPOの代表の方と話をさせて頂いた折り、「どんな組織や活動でも、その中に覚悟した人間がいるかどうかで全てが決まります。もう中途半端でもいいやという人たちの集まりだったら、絶対に続かないし成功もしない」との言葉が印象的だった。そのNPOも立ち上げ当初の修羅場を何度も潜り抜けて続けている。内戦状態にあった国の子供たちの支援の現場で、現地の人たちの信頼を得るには内戦の現場を一緒に駆け抜けることもあったという。

挑戦することに意義がある

しかし、使命感が初めからあったわけではないともいう。「最初から何かはっきりしたものがあって関わってきたのでなく、それ(使命感)は徐々に芽生えてきたんです。そして、自分の使命が見えてきたら、それに対してどこまでも誠実でなければならないし、貫き通していこうと考えたんです」。そこまで行くと、もう正のスパイラルのようなもので、どんどんうまく回り出すような感覚が伴ってくるそうだ。

お話しを聞いているうちに、神仏っていうのは人間に課題を与えるものの、それを「解決させよう」とか「成功させよう」ということを期待しているのではなく、むしろそういった課題に「挑戦することを望んでいる」のかも知れないと思うようになった。だから、よくスポーツ選手などでも「挑戦することに意義がある」と話しているのもそれなんじゃないか。そうして挑戦することで、人は内から輝き出すのかもしれないと考えるようになった。

私は月に何回か人に話をする機会があるが、その時によくこういった話しをする。だからこれまで一番多くこの話を聞いているのが他ならぬ自分であるわけだ。普段からどんな言葉を自分に語り掛けているかというのはとても大事なことで、結果それが一人ひとりの「台木」を高めるのだと思っている。