どちらの方が悪いのか

政府関係者や企業の内外でも相変わらず不用意な発言などによる謝罪が相次いでいる。マスコミなどはそれを面白おかしく取り上げるが、それでも一向になくなる気配がない。何故だろう。よく会見などでは失言した人が、「悪気はなかった」と言い訳をする。言い訳をする方にすれば、「悪気はなかった」ということを自分の意図しなかった形でそれが周囲に不快に響いたのだということを強調したいのだろう。事実、私もそのように使ったことがある。「そんなに深い意味はないのだから、許してください」ということで、言われた方も大抵は「いいよ、分かったから」と収まるのだろう。

しかし、この「悪気がない」というのは、裏を返せばその発言に対して「何が悪いのか分かっていない」ということを指す。そのため、心からの反省をせずに何度も同じ発言、同じ間違いを繰り返すことにつながってくる。一方、「悪気がある発言」というのは、それを悪いと分かっていて発言している確信犯なわけだから、「本来それが良くないことだ」と分かっている分、それを禁止したり、罰則を設けたりすれば、渋々ながらでもそれをなくすことはできるだろう。そういう意味では、「悪気がない」というのは、むしろ「悪気がある」よりもたちが悪いと言える。

飲酒運転は何故起きる

さらに、このような自覚のなさは、さまざまな場面で同様に当てはまることが分かる(「問題発見力を鍛える」(著者細谷功)より)。例えば、「酔った酔った」とふらふらしている酔っ払いと、「自分は酔っていない」という酔っ払いの、どちらがたちが悪いだろう。細谷氏は「おそらく飲酒運転で事故を起こすドライバーは『この程度は大丈夫だ』という形で自分の酔いを自覚していない」と指摘をする。同様に自分が何かの分野で「能力が劣っている」と自覚している人は、その分野のことについての本を読んだり、勉強するなどして何がしかの対策を立てるものだ。しかし、そもそも自覚のない人にはそんな行動をとる動機も生まれない。

新型コロナウイルスの感染拡大に対する反応も同じ。「不要不急の外出は控えるように」と注意を促されても、本人が不要不急と思っていないから外出してしまって感染拡大に手を貸すことになってしまっている。傍から見ると「何をやっているんだ」と眉をひそめていても、本人たちはいたってまっとうに自分のやるべきことをやっているのに過ぎなかったりする。このように、外からは問題だと容易に分かることでも、本人にその自覚のない人の問題を解決するのは至難の業ということになる。まさに、ソクラテスが唱えたとされる「無知の知」の大切さを知る。

常識を疑う

さて、次は企業の新事業の展開や新商品・新サービスの開発などにおける場面のことだ。よく「常識にとらわれるな」との掛け声がなされる。しかし、これも先ほどまでの話と関連するものがある。常識にとらわれている人は、それが当然だと思っている。お会いした時に、いきなり専門用語を駆使しながら現在どれだけ苦境におかれているかを訴えてこられる経営者の方がおられるが、これも普段は業界内で何の問題もなく話は通じているのだろうが、外部者にはいきなりで何のことかチンプンカンプンな時がある。ご本人が普段常識としながらも、まったくそうでないことが多くあるものだ。

企業の強み、弱みを分析する際や、自分自身の得意、不得意を再考する際にも同じことが言える。いくら自分たちが自らのことを真剣に考えても、それが普段と同じ論理の中での考えに留まっていると、なかなか気づきは得られない。そんな時は第三者の目で見るか、それができなければ外部の人間に見てもらうかするという手もある。とにかく、「常識にとらわれるな」「非効率なことは止めろ」「非論理的な考えは止めろ」などと言ってみても、そう指摘するのは簡単だが、実際にそれを行動に移すのは難しい。これらに共通するのは何が常識なのか、非効率なのか、非論理的なのかという自覚がないことだ。

条件を変えてみる

「常識人」というのは、自分が理解できないことを見てもそれを否定しにかかって、自分の理解できる範疇から排除してしまう。このことに対して、一度すべての常識を疑ってみるというのはどうだろう。細谷氏は「そんなの当たり前じゃないか」と思うようなことは、「ある環境や条件下において」成立することが多いのだという。例えば、タクシーの運賃が一律であることも日本にいれば当たり前だが、「そもそも」と考えて、渋滞したりなかなかタクシーがつかまらないような国においては、「少しぐらい高くてもまずはタクシーをつかまえない」と思う例を挙げている。

「そこから状況に応じて値段を変えることをはじめから仕組みとして組み込んでしまっているのが、近年急増している配車サービス」なのだ。そのように常識を常識たらしめている理由や背景を改めて考え、その条件を変えてみることで「新たな常識を生み出すことができる」と主張している。そして「常識人のベースとなっているのが知識重視の価値観であるのに対して、ここではそれと相反する思考力重視の価値観」が求められるのだという。なかなか難しいかもしれないが、普段から「当然」と考えて思考力を停止し、ものごとをやり過ごすのではなく、「何故」という疑問を持ち続けることの大切さを思い知らせてくれる。