元気のある経営者には哲学がある

仕事柄、いろいろな企業の経営者の方からお話しを伺う機会が多いが、最近気づいたことことの一つに、元気のある経営者が語る言葉は単純明快で、何を目指しているのかそれぞれに哲学を持っておられるということだ。だから話しをしていて楽しいし、その話を聞くためにまた多くの人が集まってくる。人の和ができるのだ。その反対に迷っている経営者の言葉には哲学がない。迷う姿に人間的な魅力を感じることができても、経営者として惹きつけられるものがない。

哲学は周囲にその企業の目指すところを示し、従業員たちに行動指針を与える。行動指針が明確であることは、すべきこととそうでないことがはっきりとしていて、すべきことのなかでも優先順位が明確であることだと考えている。だから哲学を持つということは、自分の目指す目標、目的がはっきりとしていて、そのための手段としての毎日の行動に迷いがなくなる。それは毎日の行動が自ずから意味を持つようになり優先順位もはっきりとするので、例えば忙しさに追われることはなくなる。逆に、忙しさを追うようになるのだ。

満足感のない忙しさ

私は毎日、仕事に当たっては「To Do リスト」を作っている。毎朝、それを確認して日々の仕事をこなしていた。それはとても忙しく、毎日も充実しているように思っていた。しかし、忙しい割に結果が伴わない。ここでいう結果とは、それなりに収入が増えるということもあるが、それ以上に、仕事に対する満足度が上がっているかということを指す。確実に消されていくTo Do リストを見て達成感は感じても、来る日も来る日もまるでハムスターの回し車のように動き回っているだけで、なぜ満足感が得られないのか。

ちなみにある週の「To Do リスト」を眺めてみた。そして、その個々のリストが持つそれぞれの目標を出してみた。そうすると、それぞれにバラバラの目標があることに気付いた。ちなみに、その週の「To Do リスト」に挙げた項目は16。そのそれぞれの目標の数は6。つまり、何の関連性もない6つの異なる仕事上の目標があったということだ。以前から薄々仕事が分散していることを感じてはいたが、これでは忙しくない方がどうにかしている。しかし、いかに仕事で忙しくしていても、そこに満足感がなければ何のための仕事が分からなくなってしまう。

目標を一つに束ねるもの

高校野球の監督が話していた。「チームが首尾よく成し遂げるべきことは山ほどあるが、その屋台骨となるビジョンを確立することこそ、もっとも重要である」と。そのチームの目指すべきビジョンは、「甲子園で優勝すること」だった。私には、「To Do リスト」に挙げられた目標を、一つに束ねるものが必要だったのかもしれない。それが私の哲学になる。監督は話している。「明確に定義された哲学は、選手たちに指針や境界線を示して、皆を正しい方向に導くことができる」と。

毎日の「To Do リスト」に挙げられる下位の目標は、どれも「目的を達成するための手段」にすぎない。つまり、もっと重要な目標を達成するための手段なのだ。それに対して、ピラミッドの上に行くほど、もっと全体的で重要な目標が並ぶことになる。そして、上にある目標ほど、それ自体が目指すべき「目的」であり、単なる手段ではなくなるということだ。それは「なぜ」を繰り返すことで、常に「~するため」という答えとともに、やがてビラミッドの頂点にある目標、つまり最終的な目的にたどり着くことになることと同じことを指す。

それは不毛な努力に終わらないか

私の場合、先に述べた仕事に対する満足感のなさも、この目標のピラミッドができていないことによるものでありそうだ。つまり、一つ一つの仕事の目標が関連性もなくバラバラで統一されていないため、逆にそれらの仕事をいつ止めても収益に影響する程度でしかなく、何ら他には問題がないということになる。もちろん収益は大切だが、これはどうも考えれば考えるほど悩ましい。

自分の子どもや仕事仲間にはよく言う。「医者になりたい」「もっと儲けて家族に楽をさせてやりたい」…。そのための目標が、ピラミッド形の構造になっていない。最上位の目標がぽつんと浮かんでいるだけで、それを支える中位や下位目標がなかったりするのをよく指摘したものだ。しかし、肝心要の自分のこととなると、まったくそれができていなかった。このピラミッドができていないと、最終的には目標を達成できなかったことに対する失望を味わうことになるのだろう。私のようにピラミッドが乱立するばかりで、それを一つに束ねる最上位の目標が存在しない場合も同様だ。

今後は何でも一生懸命に取り組むというのは不毛な努力に終わりかねないことにも注意を払った方が良いのかもしれない。改めて自分の哲学を磨き、仕事を組み立て直そうと考えているところだ。