会議は効率を求める場か

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」との発言が女性蔑視だということでマスコミを賑わしている。私としてはその発言が女性蔑視かどうかより、会議などの場で合意形成に時間がかかることを問題とすることこそが問題なのではないかと考えている。もちろんほとんど異論がないような議題にまで時間をかけるのは問題だが、異論の出ないような問題ならそもそも会議などする必要もないのである。回覧板か何かで連絡事項として周知させれば済む話かもしれない。さまざまな意見が飛び交ってこそ、わざわざ皆が集まって話し合う価値があるというものだろう。

女性としての立場で、また男性と異なる意見を出すことができるのなら大いに結構。さもなければそもそも会議に参加する必要などない。いろいろな意見が飛び交って時間がかかるのはむしろ大歓迎とせねばならないのではないか。これまでビジネスにおいては、何にしてもスピード重視、短時間で済ませることが「効率が良い」ともてはやされてきた。特に「仕事ができる」とされる人こそが、「悩んでいる暇などない」とばかりに多少の意見の違いなどお構いなしに突っ走ってきた。そんな時代が終わろうとしているのに、まだその意識から抜け切れていないのかもしれない。

多様な意見を大切にしてこそ創造性が生まれる

一方で私たちは何かと「創造性が大切」と言う。そして「創造性に欠けることが特に日本人の欠点である」とまで得意げになって話す人さえいる。もともと創造性が備わっているのかいないかの話より、それなら何故もっと多様な意見を大切にしないのかと言いたい。「空気が読めない」と言われないように、できるだけ早く仕事を終わらせるという近視眼的な目的にために口をつぐみ、その結果、皆の創造性や知識、意思決定を犠牲にしてきたのがこれまでの姿だったのではないだろうか。ほとんどの人が「急がなければ」というプレッシャーを感じながら日々の生活を送ってきたのではないか。

私たちが異論を封じ込めるのは、仕事の効率を考えてのことばかりではない。もう一つ極めて大切なこととして、円滑な人間関係を維持したいという思いがあまりに強すぎることもあるように思う。つまりわざわざ異論を差しはさんで、議論の流れに逆らうようなことをするのでなく、周囲の意見、落ち着く先を十分に見極めながら、あくまで流れを推し進めることが「大人」として認められる要件であったのではないだろうか。こんな意識も本当にそろそろ見直さなければいけない。周囲に同調するのが目的とあっては自分の存在価値はないのと同じ。話し合いに参加する資格もない。

企業でも“中国化”の懸念

私も若い頃は、皆の前で自分の意見を話すのが怖かった。「黙っているとバカではないかと疑われるが、話すとバカであることが明らかになる」との言葉があるが、これなどまさにその時の私のためにあるような言葉のように思えたものだ。黙ることを「寡黙」と言えば聞こえは良い。このほか「謙虚」、「他人に敬意を払う」、「慎重」、「礼儀正しい」という賛辞まで思い浮かぶ。一方、何でも口に出していると、「恥をかく」、「誰かと敵対する」ということは避けられず、勢い「知恵のある人のすることではない」と考えられがちだ。言葉にするかどうかはともかく、今でも多くの職場で「上司の命令は絶対」という意識は強い。

ひょっとしたらコロナという非常事態の中で、皆さんの周囲でも少数意見を封じ込めようとする動きが企業の中で大きくなっていないだろうか。話は大きくなるが、それは国レベルにすると中国がコロナを封じ込めるために、強権で市民生活を統制するのを正当化しているのと同じことなのではないか。中国の動きを見て懸念を露わにする経営者が、自社内で同じことをしているということはないだろうか。同じ意見を求める雰囲気の中でブレインストーミングをしたところで、何の意味があるだろう。多様な意見を大切にする作業は、苦痛を伴うかもしれないが、今こそ大切にしなければならない。

真摯な議論を行っているのか

昔、私が受験生だったころ、英語圏では「play devil’s advocate」(あえて反論する)という言葉があることを知った時、「何のために?」と今一つ腑に落ちなかったものだったが、それが今になってようやく分かりかけてきたように思う。「devil’s advocate」とは「悪魔の代弁者」のこと。「play devil’s advocate」で異なった観点から物事を吟味するために、あるいは議論をおかしくするために、あえて反対意見を述べることの大切さを彼の国々では以前から理解していたのだろう。何と成熟した考えだろうと改めて感心してしまう。それに対して、冒頭の発言やその後のゴタゴタはどう考えても貧弱に映る。

意見の対立が生じた時も受け身に回った方が確かに安全ではある。何しろ私自身の過去の経験からもそれは断言できる。最初の一歩は相手に踏み出して欲しいのも人情だろう。しばし静観し、そして相手の出方を待って責める。そこで相手が謝罪したり、話を切り出したりするのを待つのではなく、今求められているのは、自分の方から率先して一歩を踏み出す勇気を持つことではないだろうか。そして積極的に意見の食い違いを明るみに出し、それを掘り下げるべきである。それが話し合いにおける真摯な態度というものだろう。それが引いては相手を敬うことにもなる。まだまだ現実は遠いのかなあ。