いつも挑戦の心を

ちょっと余談めくが、私の好きな言葉の中に、女優の宮沢りえさんが何かの対談で言っていた、「散ることを知りながら咲くことを恐れず」という言葉がある。いい言葉だなと思って忘れられない。人生も同じで、いずれ死ぬことが分かっていながらも、皆が花を咲かせるために常に挑戦している。

若いころ、私は人間の花を咲かせた成功者というのは、勝負に勝った人とか何か組織のトップに立った人のことを指すのだとずっと思っていた。けれども、私が会社を転職しながら、それでも思うようにならない仕事を続ける中で、果たしてそういう人だけが成功者なのかと、すごく考えるようになった。

その極めつけは、私の妻の死だった。私たちは共働きで、妻も別の会社で働いていたのだが、その妻の突然の死に多くの関係者の方たちが集まってきてくださった。その様子を見ていて、特に組織の長でもなく特別なことをしていたというのでもない妻ではあるが、妻は妻なりに彼女の分野で一所懸命に生き、人生のチャンピオンとして輝いていたのだと思った。

可能性は誰にでもある

そんな人は多いだろう。全く世の中に知られないで、でも自分の仕事に一所懸命に打ち込んでいる人のことだ。よくスポーツ選手でも、才能のないところから努力して世界と伍している選手の話を聞くが、そんな話を聞くたびに「可能性」というのは誰にでもあると信じるようになった。

その可能性を引き出すのに大切なことは、アイデアや創造力、そして何より「自分の心の声を聞く力」を持つことかもしれない。普通は失敗すると人のせいにしてしまったりするが、自分の声に従って行動した時は、たとえ失敗しても嘘や後悔がない。そういう失敗なら後から見ても、必ず成長につながっていると思うのだ。

そして、そのためには必死になること。やはり必死さがなければそれらは生まれない。だから崖っぷちに立って初めて見えてくる世界があるというのは本当だと思う。スポーツ界などで頂点に立つ人たちの中で、自ら自分を追い込んで努力するというお話しを伺うことが多いのは、そういうことなのだろう。

心を変えると環境も変わる

よく必死になって頑張ることを、我(が)を出すことと勘違いしている筋合いも多いように見うけるが、それはまったく違うものだろう。料理人の道場六三郎氏は、ある対談で若いころ調理場で酷いいじめに会っていたという話をしていた。道場氏はしかし、ここが踏ん張りどころと考え、自分で自分を励まし毎日朝6時頃から夜11時頃まで一所懸命に働いたそうだ。

すると次第にいじめもなくなり、逆に道場氏を周りが認めるようになったと振り返る。自分が変わったことで嫌な人間関係をも変えることができた。この時のことを、道場氏は「環境は心の影」と言い表し、自分の心を変えると相手や周りの環境も変わっていくのだと学ぶことができたと言っていた。

「石の上にも3年」。果たして、この言葉は本当に死語になってしまったのか。「いったんやると決めたのだから、石にかじりついてでも我慢しろ。決して音を上げるな」という教えはどこに行ったのか。最近の離職者の多さは、やり直せる機会がそれだけ多いことを示しているようで喜ばしくもあるが、やはりちょっと違和感というか寂しさを感じざるを得ない。まあ、人のことを言えた義理ではないが。

人生の締め切りに間に合わせる

私は仕事にも人生にも締め切りがあると考えている。ダラダラしていては良い仕事は決してできない。同じように、ダラダラはせずとも、昨日と同じ仕事を繰り返しているようでは今日の意味がない。仕事のできない言い訳によく「時間がない」などという話を聞くが、それは最も稚拙な言い訳に過ぎない。時間があって良い仕事ができるのではない。時間がない中で工夫して取り組んでこそ良い仕事ができるのだ。

私も中高年になって起業した者のひとりだ。起業といえば、「よく思い切ったね」とか、「凄いね」とか言われるが、やる気さえあれば誰にでも簡単に会社は作れる。ただ中高年にとっての起業は、若い人と違ってその後の「時間がない」ことがネックになることがあるかもしれない。例えば60歳で起業したところで、元気に働けるのはあと10年か長くて20年か。

だから、「人の2倍働く」、「人が3年かかって覚える仕事を1年で身に着ける」というスピードが求められる。そういう意味で、中高年の起業家にとって、自分のこれまでの経験を活かした仕事であろうとなかろうと、「今日ここまではやる」と決めた仕事は絶対にやり遂げる毎日の覚悟と努力が必要だと感じているところだ。